上海時代に知り合った、国際的に活躍する日本人弁護士のAさんと、Aさんと共に働く中国人女性(日本語も英語もできる)と一緒にワインのみながら、東京で食事。Aさんと組んで、二人で、他の分野の専門家もあつめて、日本企業を対象にして、国際的なM&Aについて、ハイレベルのパネルを開催しようとして、何度かあって計画を練っている。
その計画の話はまた、もう少しにつまったらかこうと思うが、今日は、余談の部分を書いておきたい。
今回同席した中国人女性は、これからMBAとりに米国にいく予定で、のだが、その後、どんなキャリアがいいか、おじさん二人でアドバイスした。僕もAさんも、自分の子供(Aさんは大学生と高校生、僕は、高校生と中学生の子供をもつ)のことも考えながら、助言した。
その話をしているうちに、酔いもまわってきて、日本の大学の話になった。脳内物質が活性化して、大学の話から格差の話にとんで、また大学の話になるみたいなループがはじまった。
日本で展開されている「格差論」にはひとつ盲点がある。
日本だとトップレベルの大学を卒業しても、世界レベルでみてトップレベルの企業に入れない、という点である。日本国内の格差も問題だろうが、より問題なのは、日本で一番いいところにいっても、世界で一番いいところにはいれないという問題である。結局、日本全体が、ローカルスタンダードに陥っている。
少なくとも、日本のトップクラスの大学(東大、京大、一ツ橋、東工大、慶応、早稲田など)を出たら、世界中どこでも働けるようにすべきではないか。そうじゃないと、日本の若い人は浮かばれない。僕らの世代は、日本ローカルでそこそこやっていれば、それですんだ。でも、今やそれでは冷や飯である。
何が必要か。まず、東大等の大学の中で学ぶ学生が多国籍化することが必要だ。もちろん教授陣も多国籍化することが必要だ。大学時代から、国際競争の練習の場をもたないと不利である。
つまり、大学をJリーグ化することが不可欠である。
いかに、世界の人々を、日本にアトラクトするか?いながらにして国際競争の練習ができるようにするか。いうまでもなく、競争と同時に、国際協調もそこから育つ。競争と協調は、コインの裏表以上に近い。
その上で、高くなった上にあわせて、下を引き上げる作戦を考えればよい。
上が低いままで、下をひきあげても、結局、それは負け犬をそろえることになってしまう。
などと話ながら、帰りの地下鉄で、酔いがさめてくると、また変な思考が働きはじめた。
いや、もっとラディカルに考えて、そもそも、上記の議論で想定した、上とか下という見方を切り替えることが必要かもしれない。そもそも、世界的標準でみたとき、「トップクラスの大学」に期待しすぎるのがおかしいのかもしれない。日本(人)の競争力はもっと別のところにあるのかもしれない(アート、コミック、職人、チーム、など)。その場合も、格差問題についてまったく異なる視点の議論になるだろう。
残念ながら、異なる視点について考え始めたころ、僕はうとうとしてきて、気がついたら渋谷駅だった。
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